「私~見えるんです」と言う人
最近の世相において
誰かが自信満々に発する情報
紙面、テレビ、ネット、壇上、伝聞etc...
何でも
簡単に信じてしまう人が存在します。
そのような風潮への警鐘の意を込めて
間違いのメカニズムに関する記事を
ひとつ記しておこうと思います。
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普通に生活をしていれば
皆に同じものが見えており
話は概ね噛み合います。
しかし
時々どこかに出現する
見えるという人の言い分だけで
自分が見えない何かの存在を
簡単に信じてしまう訳にはいきません。
何れにしても
見える人も見えない人も
同一の物事を見ていることに違いはなく
それが
現象Aに見える多数と
現象Bに見える1人がいる
ということだと認識しておきましょう。
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ここから
思い出した話で恐縮なのですが
少しだけ記憶に残る小学校での色盲検査
教室の中の列はどんどん進み
そうして何の検査かも分からないまま
私の番になると
検査担当の先生がノートを広げ
(記憶では女性の教員)
「はい何ですか?」
「何ですかって急に言われても」
私は面食らってしまいました。
色とりどりの小さな円の粒が
大きな円の中に散らばっているだけで
何が何だか分かりません。
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大きな円の上には
万年筆のインクが滲んだような
米粒大の染みがあり
大きな円の下には
鉛筆で引っ掻いたまつげのような
ひょろひょろっとした曲線があったので
(たぶん汚れていたのでしょう)
・・・米粒大の染みが頭
・・・まつげのような曲線が尻尾
・・・真ん中の大きな円が胴体
「亀?」
私が捻り出した精一杯の答えでした。
「えっ?」
先生は困惑の表情を浮かべ
後ろに並んでいた同級生たちは
肩越しに騒然となりました。
「じゃあこれは?」
先生はページを捲りました。
「何んだ~そんなことだったのか!」
私は円の中の文字を言いました。
(ひらがなだったと記憶しています)
ところが
周囲はさらなる大騒ぎ
皆が見える文字が私には見えず
皆が見えない文字が
私にだけ見えていたのです。
そこから先の経緯は覚えていませんが
検査結果は
赤緑色弱(せきりょくしきじゃく)
その時
私は見える人になりました。
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見えるという人の言い分において
自らの何らかの身体の特性によって
見え方が
他人と違うことに気付かされます。
同じ出来事なのに
覚えている人と覚えていない人
同じ辛さなのに
食べられる人と食べられない人
同じ音域なのに
聞こえる人と聞こえない人
他の出来事にも色々と当てはまります。
同じ風景を写しても
カメラの性能によって
作品の出来栄えが異なるように
すべてが
外の現象ではなく
内の機能の違いだと考えられます。
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何かが見えたからと言って
人生相談のような
何かができるという保証はありません。
他人と違った才能があるのであれば
警察犬が些細な臭いを嗅ぎ分け
捜査に貢献するように
その能力を真っ当に活かし
社会に役立てれば良いと思います。
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私たちは
頭ごなしに疑って掛かる訳ではなく
オーラが見えるなら
それは素晴らしいことであり
霊魂や死後の世界も
本当にそんな世界があるなら
是非見てみたいと思います。
それが本当であるならば
誰だって
そう願うのではないでしょうか?
大事なことだからこそ
私たちは
信じるための
確固たる証拠が欲しいだけなのです。
不思議なことに
私見えるんですと主張する人の中から
因果関係を証明しようとする人は
只の一人も出てきません。
科学で何でも解決する訳ではない
そんなことは誰も主張していないのに
お決まりの藁人形論法を仕立て上げ
論理が噛み合うこともありません。
トンデモ論者は
人間が常に間違うことを
あまりにも小さく見積もっています。
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科学的に実証できる超能力を持つ者に
100万ドルを進呈!
疑似科学批評家の
ジェームズ・ランディが
世界中からの挑戦を募る企画に対し
これまで
述べ1000人以上の強者が挑んでいますが
・・・透視ができるという人も
・・・オーラが見えるという人も
その偽善的能力は
完膚なきまでに退けられています。
これまで誰一人として
1億円を手に入れてはいないのです。